水鏡に映る三日月 | Main

水鏡に映る三日月



食欲の秋

いつもはテレビの音しか響かないこの部屋に、今日だけは違う音が混在している。蛇口から流れる水の音やまな板と包丁によって生まれる音、そしてコトコトと何かが煮えてる音。こんな音は普段の俺の家からは滅多に聞こえないものだからだろうか、我ながら少し違和感というものを感じてしまう。そして自然と部屋中に漂う美味しそうな匂いに心を奪われつつも、最後の仕上げに取り掛かるために、再度腕まくりをして鍋との睨めっこを開始した。

作業を開始してから約1時間。久しぶりに手にした料理本を片手に、あまり慣れない手つきで開始した作業がついに終わりを迎えた。
今日は部活もないし暇で何もすることもないから、久しぶりに料理でもしてみようかなと思ったのがきっかけ。何を作ろうかと料理本とにらめっこしていたら、なんとなく煮物が食べたくなって。いざ作り始めたら意外に楽しく感じて、ついでに付け合せには何がいいだろうと考え始めてたら、気が付けば冷蔵庫にあるものを全て使って新たなおかずを作っていた。

…さて、ずっと集中してたから疲れたし冷めない内に食べちゃおっかな。日頃料理とかしないから、自分が作ったものでもすごく美味しそうに見えるのは頑張った証拠だからなんだろうな。食べるのが勿体無いとまでは思わないけど、写真に残しておこうかな…なんて思わないはず……たぶん。

出来上がった料理を一つずつ皿に盛り付けていく。見た目とか普通は気にしないのだが、ここまで丁寧に調理したのが久しぶりすぎて逆に変なとこまで気にしちゃうのは仕方ないことだろう。全ての準備も整い、箸を持って「いただきます」と言葉にしようとしたその瞬間、あることに気が付いてしまった。

「あ、しまった…。」

言葉にしてようやく気が付く。そう、それは目の前に広がる料理の数々。調理してる最中は気にも留めなかったが、見る限りこれは1人分の量ではない。
今日は野球部の練習もないしバイトもないから、久しぶりにちゃんとした料理でもしてみるかと取り掛かったのはいいんだけど…こんなに量作ってどうすんの俺…。食べる人は俺しかいないんだから、こんな量作ったって意味ないじゃん…。

作った後に早速後悔するなんて、さすが計画性ゼロの俺だよな…。まぁ今に始まったことじゃないけどね…。
なんて脳裏に浮かんでしまうのも俺らしいなと若干納得してしまった。

ってかこれどうしよう…。いくらなんでも作りすぎだよなー…。まぁ明日の朝御飯にしてもいいんだけど、せっかくならその日の内に食べちゃいたいんだよな…。

うーんと頭を捻りながら考えていると、突然チャイムの音が室内に響き渡った。
あれ、こんな時間に誰だろう?とふと疑問に持ち、壁に掛けかけてある時計に目を移すとすでに針は19時を指していた。こんな夕飯時に一体誰が訪ねに来たのだろう。野球部のみんな…じゃないだろうし、もしかして宅配便…?
疑問を抱えながらも着用していたエプロンを外そうとしていると、再び鳴り響くチャイム音に焦燥感に駆られる。急いで出られる格好をし、何事もなかったようにドアノブを握り扉を開けた。

「はいはい、どちらさまー?」
「よっ、良郎!」

扉を開けると、そこには満面の笑みを浮かべてる一人の女の子が視界いっぱいに広がった。その子は制服を着用していて片方の手はコートのポケットに、そしてもう片手は軽く手を挙げ、ひらひらと手を振ってみせる。外は寒いのだろう、彼女の鼻や頬は赤く染まり白い息がもくもくと宙に上っていった。
あまりの突然のことにしばらく頭がついていかなかったが、ようやく目の前の人物に見覚えがあると気付いた俺は思わず大声を出してしまった。

「なんでがここにいんのッ!?」
「んー…お腹が空いたから?」

は人差し指を顎に持っていき、予想外すぎるような言葉を呟いた。のそんな気の抜けるような返答に俺は思わず「へっ?」と声にならない声を漏らす。
え、だってがここにいるなんて有り得ないでしょ!?の家は俺ん家と反対方向なんだし、何よりなんでこんな時間にいるんだよ!?

俺が未だに混乱しているのを察したのだろうか、はハァと大きなため息を吐くと俺の顔をじっと見つめ言葉を発した。

「だーかーらー。突然お腹が空いて倒れそうになったところに、どこからともなく夕飯の良い匂いが漂ってきてね。その匂いにつられて来てみたら、良郎の家だったっていう訳」

どう、分かった!?というばかりに、自信満々に理由を述べる。うん…ちょっと冷静になろうか俺…。があんなにも冷静なんだから、俺にだってできるよ…。
ー…ええと、つまりが家に帰ろうとしたらお腹が空いて。そしたらタイミングよく誰かの家からいい匂いがして。その匂いに誘われてきてみたら、俺の家だったーー…ということでいいんだよね…?ってか、…そんなフラフラしてたら危ないと思うんだけど…。仮にも高校生でしかも女の子だよ…?もう少し気をつけて行動してもらわないと、こっちが心配で気を抜ける暇がないんだけど…。
らしいその行動に半分呆れていると、俺のじゃない腹の音が主張をし始めた。その音を聞いての顔を見ると、えへへ…と声を漏らしながらお腹をさすっていた。

「…もし良かったら食べてく?おかず作りすぎちゃって実はちょっと困ってたんだよね。」
「本当!?いやーさすが良郎、私の料理長!」

いつからの料理長になったんだっけ俺。ってか、に一度も手料理食べさせたことないような気がするんだけどな…。
まぁそこは突っ込んだら負けかと軽く納得し、すぐさまを家に招き入れる。

玄関で靴を脱ぎ部屋に上がってもらうと、すでに用意されているテーブルに目を移したから突然黄色い声が飛び交った。

「えええ!?ってかこれ、全部良郎が作ったのッ!?」
「あー…うん。久しぶりに料理したら思いのほか作りすぎちゃって…」

の目はキラキラ輝いていて、今にもよだれを垂らしそうな勢いで机に並べてある料理を見つめていた。すると今までよりも速いスピードでコートを脱ぎ、すぐさま台所に向かい手を洗うのを済ませると急いで席に座り込んだ。の視線は俺にへと向かれ、早く食べたいと目で訴えかけているのが分かる。その姿があまりにも餌を待つ犬のように見えてしまった俺は不覚にもが可愛いと思ってしまった。

ー…あー…相変わらずには甘いんだな、俺…と若干染まりつつ頬を隠し、俺もが座っている席の真向かいの椅子に腰をかけた。

「いっただきまーす!!」
「いただきます」

二人揃って食べる前の挨拶をする。いや、もしかすると若干の方が早かったかもしれない。俺が箸を持つのと同時に、はご飯がよそってあるお茶碗を片手におかずをほおばり始めていた。そういえばお腹空いてたんだもんね、たくさんあるしいっぱい食べてよ…と心の中で呟く。
さて、俺も食べるかと作りたての煮物を口に放り込む。ー…うん、久しぶりに作ったにしては美味しいんじゃない?味も程よく染み込んでるし、スーパーに売っていてもおかしくないんじゃない?俺ってやれば出来るんじゃん…?
自分の料理にちょっとだけ感動していると、向かいのから何やら視線を感じそのまま顔を上げてみる。

「ちょっと、めっちゃ美味しいじゃないの良郎…!」

視線が合ったからは、ものすごく幸せそうな表情でご飯を頬張っている姿が目に映った。
ー…料理を褒められて嬉しくない人はいないだろう。しかも幼馴染の相手に言われるのだから、余計に嬉しい。

「…ありがとな」
「次はお鍋作ってよ!そしたらまた食べにくるから!!」

あ、次も俺ん家に来る予定なんだ、…と冷静に突っ込む。
でもご飯を作っただけなのに、こんなにも喜んでもらえるとは正直思わなかったな。たまには役に立つこともあるんだな、俺の性格。今回ばかりは作りすぎた俺、よくやったなって褒めてやろうかな。

ー…さてのご希望通り、次はお鍋にしようっと。寒い日が続いてるから体が温まるキムチ鍋にして冬を満喫しようかな、と早くも次の予定を立て始める俺。お鍋は調理自体簡単な料理だけど、冬にしかできない料理だもんな。せっかくがそう言ってくれてるし、料理を続けてみるのも悪くないかもな…。

「良郎、ご飯おかわり!」
「はいはい」

勢い良く手を伸ばすの手からお茶碗をもらい、ご飯をよそうため席を立ったのだった。